About The Whiffenpoofs
アメリカのアイビーリーグの名門校エール大学の4年生の中から、毎年、世界最古の大学アカペラグループ、
Whiffenpoofs(ウィッフェンプース)のメンバーが選ばれる。1909年に5人の4年生がカルテットとしてエールの有名なバー
「Mory's(モリーズ)」に毎週集まって歌を披露することから始まった「Whiffs(ウィフス)」は
今では学内で最も伝統のある活動の一つとなっている。
History
遡ること100年以上も前のこと、霜が肌を刺すコネチカット州の町、ニューヘイブンの1月のある夜、
5人のグリークラブのメンバー達が寒さから逃れてモリーズ(モリーズテンプルバー)に集まった。
このバーの音楽好きで知られる名物店主ルイス・リンダーは5人を温かく迎え入れた。
この5人の内4人は、グリークラブの中でも選抜されたカルテット4人組で、
数々の卒業生のイベントでもその歌声を披露していた。
彼らは、公の場でのパフォーマンスだけに自分たちを制限することを嫌い、
本当に好きな曲でハーモニーを作り出すために毎週このモリーズに集まるようになった。
この集まりは後にすぐシンガー達の伝統となる。
彼らの事がキャンパス内でも話題になるにつれ、5人はグループ名を考え始めることになる。
メンバーの1人デントン・フォウラーが、架空の動物を表現する時に使う名前、Whiffenpoofを提案した。
メンバー達はその明確な形がなく気まぐれな具合が、自分たちの集まりにピッタリだと言い、すぐにその名前が定着した。
それから時を経て、Whiffenpoofsの伝統は世代をこえて守られていき、世紀を越えた今も
その名前、歌、週に1回のモリーズでの集まりは、彼らを繋ぐ伝統として受け継がれ続けている。
The Whiffenpoof Song
To the tables down at Mory's, to the place where Louis dwells
(モリーズのテーブルに、ルイスのいるその場所に)
to the dear old Temple Bar we love so well
(私達の大好きな古いテンプルバーに)
sing the Whiffenpoofs assembled, with their glasses raised on high
(ウィッフェンプーフスは集まり、グラスを高々と掲げ)
and the magic of their singing casts its spell
(彼らの歌の魔法がその呪文を放つ)
このWhiffenpoof Songの源流は1907年にメンバーの2人がグリークラブの冬季演奏旅行の際に、
イギリスの小説家ラドヤード・キプリングの詩「ジェントルマンランカーズ」のパロディを面白おかしく作って遊んでいたところにある。
その後、モリーズにてこれが彼らのテーマソングとなり「集まる度に敬意と共に必ず立ち上がって歌う」曲となった。
100年以上経った今も、伝統の証として必ずコンサートの最後に歌うこの曲は、ルディ・バレー、ビン・クロスビー
エルビス・プレスリー、ルイス・アームストロングなど、様々なアーティストによってカバーされている。
How It Started
このプロジェクトは、宮島 将郎という1人の男性が1982年に日本へWhiffenpoofsを招いた事から始まり、委員会事務局、ホストファミリー他全てボランティアで活動を続けています。
日米の真の架け橋となる若者が育つきっかけを作りたいと草の根ながら続けた活動は、今ではWhiffenpoofsの世界ツアーで訪れる国々の中でも最も伝統のある訪問国の1つとなっています。
40年前のある日から始まったー
慶應大学商学部で勉強をせずコーラスに熱中し、1962年に入社した日本テレビで読売日本交響楽団の番組を作っていた
1980年のある日、高校の先輩から、自分が勤務先のホテルで世話をしているエール大学の男声コーラスグループを
番組に出して欲しいという電話があり、参考のLPレコードが送られてきました。
それがYale Whiffenpoofsとわたしの出会いです。
レコードを聴いて驚いたのは日本の大学男声合唱団とまったく違う楽しさと美しさです。
大学であんな楽しいコーラスをやったことが無かったわたしは、目ならぬ耳から鱗が落ち、
1982年に1時間の特別番組を2本作りグループを日本に紹介しました。
その年の日系マネージャーで、世田谷に祖母さんが住んでいたDana Martin君(1982)とは、
その後何回か、日本とアメリカで再会していますが、毎年14人のメンバーが今年で37回めの来日なので、
500人を超える若者たちがわたしの前を通り過ぎた計算になります。
さて、長い歴史の中で、わたしはエール大学に2回行ったことがあります。
プロジェクトが始まってから四半世紀目のエール訪問と、Whiffenpoofs創立100周年の記念式典で、
どちらも長年協力してくれているホストファミリーたちと一緒の旅でした。
忘れられないのはエール大学の、中世ヨーロッパの城を模した食堂Commonsで開かれた記念式典です。
広い館内には長いテーブルが敷き詰められ、750人を超える参列者の中央がわたしたち日本人の席です。
中世風の長いローブを着て、頭に月桂冠を被った、ユーモア好きなWhiffenpoofs会長のDennis Cross君(1965)の司会で
行われた式典は、100年の歴史の中でグループに貢献した人たちの表彰から始まりました。
わたしは大勢のアメリカ人の中でただ一人の日本人で、配布された式次第のパンフレットには写真と紹介文~書いてくれたのはTimothy Mansfield君(1995)とBrian Byun君(1996)~が記載されています。
わたしが名前を呼ばれて立ち上がった時、大ホールの両端から大きな歓声が湧き上がりました。
声の主はわたしの前を通り過ぎたメンバーたちで、若い彼らは端の方の席に居たのです。
背が低いわたしが彼らに見えるように 赤くて大きいナプキンを頭の上で振り回すと歓声はますます大きくなり、
事情を知らないOBたちは不審な顔をして驚いています。
パーティーが終わるとDana Martin君(1982)をはじめ大勢のOBがやって来ました。
車椅子で行った女房も顔見知りのメンバーと笑顔を交わしています。
さて、36年間の歴史の中にはいろいろな思い出があります。
ホストから借りていた高級カメラ持ったまま離日してホストから苦情が届き、
連絡した結果、送り返してきたメンバーもいます。
ツアー・マネージャーが日にちを間違えて予定日に来日せず、翌日のコンサートでわたしの合唱団が
歌いながら待っていたところに普段着で登場した愉快な出来事もありました。
一旦帰国した後、日本に戻って来てわたしの会社で働いていたTimothy Mansfield君(1995)は
毎年わたしが主宰するコンサートで歌い、David Code君(1987)も同じように毎年歌いに来てくれています。
さて、プロジェクトの初期にはメンバーを昔の連れ込み宿のあとの安い旅館に泊めていたのですが、
ある朝起こしに行ったら、小さな部屋から廊下にニューッと足が伸びているのを見て反省し、
わたしの妹に相談してホームステイを始めたのが今では累計で100家族を超えています。
アメリカのエリートの若者たちが日本のウサギ小屋(笑)に住み、日本人と一緒に生活して親しくなることが
将来の日米関係に役立つと確信しています。
その証拠に、主催者のわたしはホストをしないので詳細を知りませんが、
メールや旅行でのホストとメンバーの親しい交流は盛んに行われています。
最後に、最新のエピソードです。
2017年7月27日はわたしの誕生日で、来日していたWhiffenpoofsとホストファミリーが
わたしの誕生祝いをしてくれました。パーティーの最中にマネージャーのBenson May君(2017)がやって来て
「宮島さん、僕の父のPeterもWhiffでした」と言います。
驚いたわたしはお父さんのPeter May君(1987)にその場からメールで
「Peterさん、あなたの息子さんと会えて幸せです。今Whiffsはわたしの誕生日を祝ってくれています」
というメッセージを送りました。すると、即座にPeter君から返信があり
「宮島さん、わたしも幸せです。わたしは30年前に宮島さんの50歳のHappy Birthdayを歌いました」と書いてあります。
ワォ!
何ということでしょうか。
これは嬉しかったですね。
こんな夢みたいな経験ができるのもホストファミリーと毎年招いてくれるスポンサーのおかげです。
なお、わたしの後継者には肥田雅子さん(19??)と戸田泰子さん(19??)が決まっているので、
プロジェクトが永遠に続くことを約束します。
(上)100周年記念パーティーにて名前を呼ばれ赤いナプキンを振る宮島
(右)記念祭パンフレットに掲載された宮島の紹介文
World tour and Japan
Whiffenpoofsは、約3ヶ月間に渡る世界ツアーを全て自分たちで計画を行います。
グループには、音楽的要素を担う指揮者を始めとする、全体の収支を管理するビジネスマネージャーや、各訪問国ごとの担当者など14名のメンバーがそれぞれに役割を持っています。そして、これまでの歴代Whiffsが築いてきた各国の人々との繋がりや、現役メンバーの繋がり、エール大学卒業生の繋がり等を活用してツアーを組み立てていきます。ツアーの費用は年の前半(9月〜3月)でアメリカ国内で行ったコンサートの収益や、世界ツアー中の収益をやりくりして捻出されます。そのため、ホスト側の好意でドバイの5つ星ホテルの宿泊し、お礼としてディナーコンサートで歌うが、翌日次の国への移動は格安航空会社の飛行機でなんということは当たり前となっているのです。
そんな中、35年以上の歴史を築いてきた日本滞在はメンバーひとりひとりが、ホームステイ先に滞在をするというとてもアットホームで人情味あふれる体験となっています。日本では、ホストファミリーを始め、コンサートを支援してくださる多くの方々のお力があり、Whiffsは毎年大盛況の夏の嵐を巻き起こし、次の国へと旅立って行きます。
Whiffs in Japan 委員会
宮島 将郎
1982年に自身の音楽番組にWhiffsを始めて招待。持ち前の企画力と幅広いネットワークを駆使して35年以上プロジェクトを続けてきた。1988年よりWhiffenpoofs名誉メンバー。
戸田 泰子
2001年、中学生の時に初めてWhiffsのコンサートに訪れる。宮島との深いご縁も発覚し、高校時代のアメリカ留学後2008年より運営に関わる。2016年よりWhiffenpoofs名誉メンバー。